カフカ『巣穴』01

フランツ・カフカの短編小説『巣穴』を翻訳していくLetterの第1回です
頭木弘樹 2026.05.27
誰でも

●最初は『巣穴』から

 これから毎日、少しずつカフカの短編小説を訳していく。

 最初は『巣穴』という作品だ。

 私はカフカの短編小説の中で、この『巣穴』がいちばん好きだ。

●カフカの最後から2番目の作品

 カフカの最晩年の作品だ。

 カフカの残っている作品の中では(焼却されたりしたものもある)、最後から2番目に書かれた。

 亡くなる約半年前の冬に書かれた(1923年の11月末から翌年1月ごろ)。

●たったひと晩で書かれた

 カフカの最後の恋人のドーラによると、

ただの一夜で書かれたものである。冬のことだった。彼は晩方早くに書きはじめ、朝方には終えた

(「フランツ・カフカとの生活」『回想のなかのカフカ』ハンス=ゲルト・コッホ編 吉田仙太郎訳 平凡社)

 とのことだ。

 これほどの素晴らしい作品を、たったひと晩でとは驚きだが、なるべく一気に書くのがカフカのやり方だ。

●中島敦とカフカの『巣穴』

 日本の小説家で、初めてカフカを読んだのは、おそらく中島敦だ(芥川龍之介や太宰治も読んだという説もあるが、確証はない)。

 中島敦は、あの『山月記』を書いた作家だ。

 中島敦は『狼疾記』という短編小説の中で、こう書いている。

今彼の読んでいるのは、フランツ・カフカという男の「窖」という小説である。小説とはいったが、しかし、何という奇妙な小説であろう。

 この「窖(あな)」というのは『巣穴』のことだ。

 日本の小説家がカフカについて書いたのはこれが最初であり、それは『巣穴』についての感想だったのだ。

***

●いよいよ始めよう!

 前置きが長くなったが、それではいよいよ訳していこう。

 最初なので、ドイツ語原文と、代表的な英訳も載せておく。

●ドイツ語原文

Der Bau

Ich habe den Bau eingerichtet und er scheint wohlgelungen. Von außen ist eigentlich nur ein großes Loch sichtbar, dieses führt aber in Wirklichkeit nirgends hin, schon nach ein paar Schritten stößt man auf natürliches festes Gestein. Ich will mich nicht dessen rühmen, diese List mit Absicht ausgeführt zu haben, es war vielmehr der Rest eines der vielen vergeblichen Bauversuche, aber schließlich schien es mir vorteilhaft, dieses eine Loch unverschüttet zu lassen. Freilich manche List ist so fein, daß sie sich selbst umbringt, das weiß ich besser als irgendwer sonst und es ist gewiß auch kühn, durch dieses Loch überhaupt auf die Möglichkeit aufmerksam zu machen, daß hier etwas Nachforschungswertes vorhanden ist. Doch verkennt mich, wer glaubt, daß ich feige bin und etwa nur aus Feigheit meinen Bau anlege.

●英訳

The Burrow

I HAVE COMPLETED the construction of my burrow and it seems to be successful. All that can be seen from outside is a big hole; that, however, really leads nowhere; if you take a few steps you strike against natural firm rock. I can make no boast of having contrived this ruse intentionally; it is simply the remains of one of my many abortive building attempts, but finally it seemed to me advisable to leave this one hole without filling it in. True, some ruses are so subtle that they defeat themselves, I know that better than anyone, and it is certainly a risk to draw attention by this hole to the fact that there may be something in the vicinity worth inquiring into. But you do not know me if you think I am afraid, or that I built my burrow simply out of fear.

(Willa & Edwin Muir訳)

●私の訳

『巣穴』

 巣穴をつくった。どうやらうまくできたようだ。

 外から見えるのは大きな穴がひとつだけで、その穴はじつはどこにも通じておらず、ほんの数歩進むと、もともとそこにあった固い岩にぶつかる。

 そういう策がほどこしてあるわけだ。といっても最初から計画していたことではないので、自慢にはならない。穴を掘ろうとして失敗したことが何度もあって、これもその掘りそこないのひとつなのだ。ただ、あとになって、この穴だけは埋めずに残しておいたほうがいい、と思いついた。

 もちろん、あまり策をめぐらしすぎると、かえって墓穴を掘る場合もある。そのことは、だれよりもよくわかっている。この穴のせいで、このあたりにきっと何かあるにちがいないと、さぐってみる気にさせてしまうかもしれない。だから、こんな目立つ穴をそのままにしておくのは大胆すぎる。だが、わたしは臆病ではないし、臆病なせいで巣穴をつくったわけでもない。

●もぐら?

 主人公は、どうやらもぐらのような小動物だ。ただ、はっきりはしない。中島敦も、もぐらかイタチか、そういうたぐいのものだろうと書いている。

 カフカは動物を主人公にした小説をたくさん書いているが、そのそもそものきっかけは、もぐらとの出会いだった。

 21歳のときのことだ。

 カフカは犬を連れて散歩していた。

 道にもぐらがいた。犬がちょっかいを出す。

 もぐらは逃げようとして必死で穴を探すが、見つからない。

 カフカはそのあわてぶりを見て、大笑いした。

「しかし突然、犬がのばした前足でまたもやもぐらを叩いたとき、もぐらが叫んだ。クス、クススと」とカフカは親友のブロートへの手紙に書いている(1904年8月28日)。

 それは、思わず発せられた悲鳴であり、祈りだ。それが、カフカの耳にも届く。

「するとそのとき、ぼくに起きたのだ」(同前)

 何が起きたかというと、鳴き声をきっかけに、カフカは突然、もぐらに変身したのだ(もちろん本当にではなく、幻想として)。すべての出来事を、もぐらの視点から見る。

 そうすると、すべてがまったくちがって見える。

 人間にとっては笑い事だが、もぐらにとっては生きるか死ぬかの恐怖であり、犬は残酷な運命であり、その飼い主である人間は神にも等しい。

 これ以降、カフカは弱くて小さい生き物の視点から世界を見つめ、小説を書くようになるのだ。

●タイトルについて

 まず『巣穴』というタイトルについて。

 これはじつはカフカがつけたものではない。

 この作品は生前には未発表で、だからタイトルもつけていなかった。

 カフカが亡くなったあとに、親友のブロートが発表し、そのときにブロートが『巣穴』というタイトルをつけた。

 きわめて妥当なタイトルだと思う。

 なお、日本では『穴巣』と訳されることもあり、私も最初それで読んだので、なんとなく愛着があるが、意味は同じだし、『巣穴』のほうが一般的なもので、そうした。

●その他(1)「つくる」

「巣穴をつくった」のところは、「つくった」を漢字にするかどうか迷った。

 巣穴は主人公にとっては大きな建造物のようなので「作った」ではなく「造った」がよさそうだが、ちょっと読みにくく感じる人もいるかもしれない。

 1行目から、少しでも読みにくいと、読む気をかなりそがれる。

 少なくとも私はそうだ。そもそも活字が苦手なので。

 そこで、ここは「つくった」とひらがなにした。ただ、あとでまた考え直すかもしれない。

●その他(2)「墓穴を掘る」

「かえって墓穴を掘る場合もある」と訳した箇所は、意味的にはぴったりなのだが、「墓穴を掘る」は日本語の慣用句だ。

 翻訳で日本語ならではの表現は使わないほうがいいという考え方もある。

 また、穴を掘っている話なので、そこで「墓穴を掘る」という表現を使うと、わざとという感じがする。

 カフカ自身は「墓穴」という言い方はしていないので、訳文でも、こういう表現は使わず、普通に「かえって自滅してしまうこともある」としたほうがいいかもしれない。

 なので、ここはあとで変えるかもしれない。

***

●すっかり長く!

 すっかり長くなってしまいました。

 今後はもう少しコンパクトにまとめていこうと思います。

 明日以降、ほぼ毎日更新していくつもりです!

 どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

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