カフカ『巣穴』11
●改行について(前回のつづき)
前回ご紹介したように、どれくらい改行するかというのは、同じ作家でも時代によって変化する。
では、今の時代にカフカが生きていたら、どうしただろうか?
と想像してみても、これはわからない。
やはり改行が少なかったかもしれないし、増やしていたかもしれない。
そこは勝手に推測するわけにはいかない。
だから、本来は、カフカの改行のとおりに、翻訳でもまったく同じにすべきだと思う。
しかし、それではとても読みにくい。
前回の夏目漱石の『吾輩は猫である』、かなり読みにくかったと思う。
『吾輩は猫である』は朗読で聴くと、本当に楽しいのだが、読むのは骨だ。
それはもうただただ改行が少ないという理由による(漢字の使い方もあるが)。
今の読者はどうしたって、こういうのに慣れていない。
改行が多いのに慣れている。
前々回言ったように、カフカは本にするとき「すごく大きな活字」と「たっぷりした余白」を求めていた。
それだと、改行がなくても、読みにくさはまったくない。
ただ、これを翻訳でやることは難しい。
じつは私はかつて、『逮捕+終り 「訴訟」より』(創樹社)という本で、それを実践したことがある。
カフカが望むほどには活字を大きくできなかったのだが、それでも文芸批評家の人から「活字を大きくしてページ数をかせいでいる」と批判されてしまった。
カフカの要望を知らなければ、当然、おかしな本に見えてしまうのだ。
高科書店という出版社からも、吉田仙太郎の訳で、〈カフカが生前に希望した「可能な限り大きな活字・ゆったりした組版」を再現〉という趣旨で、大きな活字の本が3冊出たが(『観察』『田舎医者』『断食芸人』)、もう絶版で、入手困難だ。
この3冊は1冊に合本するかたちで復刊されたが、活字は普通サイズになっていた。
というわけで、翻訳をカフカが望むような大きな活字で出すことは難しい(私はまたいつか挑戦したいと思っているが)。
となると、カフカの原文どおりの改行だと、ページが文字でいっぱいになってしまって、今の読者にはかなり読みにくい。
その読みにくさは、カフカの原文にはないものだ。
ごめんなさい!
また長くなってきたので、つづきはまた次回に!(何回やるんだという感じですが……)