カフカ『巣穴』12
●改行について(前回のつづき)
というわけで、
カフカの原文どおりの改行にすると、カフカの原文にはない読みにくさが生じ、
読みやすく改行を増やすと、カフカの原文どおりの改行ではなくなってしまう、
というジレンマが生じる。
どちらにしても、本来のカフカの文章とはちがってしまうわけだ。
西欧のオーディオは、どうせスピーカーで音楽を聴くのなら、スピーカー自体の木の音のよさを味わいたいという基本方針で作られていて、
日本のオーディオは、原音忠実、なるべくスピーカーを感じさせないほうがいいという基本方針で作られている。
これらはそれぞれによさがある。
日本の翻訳も、あくまで原音忠実というタイプのほうが多く、改行位置はとくにきちんと守る人が多い。
カフカの翻訳も、だから大半がそうだ。
ただ、池内紀は、改行をかなり増やしている。だから読みやすい。それを批判する人もいる。
しかし、じつは池内紀だけではなく、柴田翔のような厳しそうなドイツ文学者も改行を増やしている。
で、私はどうしているかだが、
私は、改行を増やしている。
なぜなら、私は活字が苦手で、読みにくい本は読めないからだ。
自分が読めないものを、人に読んでくださいと言うわけにはいかない。
そして、改行を増やしたからといって、カフカの意図が壊れることはないと思っている(これは「おまえの判断にすぎないだろ」と言われたら、そのとおりなのだが)。
たしかに、『変身』でも、ずっと長い段落がつづいているところに、ある部分だけ、連続して短く改行してあるところがあり、そこには目がとまる。
改行を増やしていると、その分、そこが目立たなくなる。
そういう問題はある。
しかし、前々回の夏目漱石の『吾輩は猫である』、あれを読んで、ちゃんと笑えるだろうか?
私は正直、朗読では何度聴いても笑ってしまうのに、本で読んだときには笑えなかった。
紙面をびっしり文字がおおっていたのでは、読みにくくて、本来の楽しさが味わえない。
私は、こちらの問題のほうが大きいと思う。
そういう次第で、
「大きな活字/ゆったりした余白」で刊行できる場合には、本来の改行どおりにするが、
そうでないときには、改行を増やす、
というのが私の方針だ。
そのほうがカフカの文章の詩的な味わいもちゃんと味わえると思っている。
ただし、とはいえ、いくら一文が長くても、文章の途中で改行するのは、さすがにまずいと思うので、それは私はしない。
改行するのは、あくまで文章の区切れ目のところだけだ。
すごく長くなってしまいましたが、改行についてでした。